第2章ログ

2017年06月14日 00:00

第2章の議論ログです。

 

第2章は、経済学が科学としてどのように経済をモデル化するかに関する入門編でした。
ポイントとしては以下の通り:

  • 経済学も自然科学同様に、現象から理論を構築し、その理論の妥当性を検証する
    • ただし経済学の場合、自然科学にあるような実験的操作を行うことは難しいあるいは不可能である場合もある
  • 経済学では経済に関するモデルを構築するときに、様々な仮定を置き、複雑な経済を単純なモデルに落とし込んで理解しようとする
    • ただしこうした仮定の妥当性に関しては経済学者間でも合意が取れていないのが現状である
      • 経済学が置いている仮定の中にはしばしば現実から大きく逸脱しているように見えるものがある
      • 非現実的な仮定から導出される理論モデルや予測はどの程度現実社会に還元可能なものか?

 

という内容を踏まえ、以下の応用問題3について議論しました。

第1章で論じられた経済学の第1原理は、「人々はトレードオフに直面している」であった。生産可能性フロンティアを用いて、綺麗な環境と高い所得との間のトレードオフに社会が直面していることを説明しなさい。
このフロンティアの形状や位置を決めている要因はどのようなものだと考えられるか。もし技術者が汚染物質を少ししか排出しない新しい発電方法を開発すると、このフロンティアはどうなるだろうか。

議論の結果:グラフを書いて見よう(記述が追いついたらキレイに修正します)

  • 仮に、発電方法として火力発電を想定する
    • 火力は最も高い所得を生み出すが、その代わり環境汚染も進む

※当日の議論では火力発電以外の発電方法を考慮しましたが、その場合だと少し話が複雑になるのでまとめでは火力発電(とそれが生み出す所得)と環境汚染だけに着目しています

生産可能性フロンティアとは?

生産可能な生産要素(労働・土地・資本など)と、それを用いて生産物を生み出すのに利用可能な生産術とを所与とした場合に、経済が生産できる生産物の様々な組み合わせを示すグラフ

ここで想定している例の場合、以下のようになるだろうと考えた。

  • 生産要素=労働・土地・資本など
  • 生産術=発電方法(今回の場合だと火力発電)
  • 生産物=所得または環境

所得ときれいな環境の生産可能性フロンティア

  • 所得を増やすための投資(火力発電)と環境保全への投資に使える生産要素(労働力、資産)は限られている
    • 全ての生産要素を発電に向けると、環境保全への投資は行えなくなる=トレードオフ関係
  • 生産可能性フロンティアは曲線を描くだろう(下図左側)
    • 所得に資源のほとんどが費やされている場合、そこから少しだけ環境に資源を費やしても所得はあまり減らさずに済む(①)
      • 所得で測った環境の機会費用(コスト)は小さく、傾きがかなりフラットに近い
    • 逆に、環境に資源のほとんどが費やされている場合、そこからさらに環境に資源を費やそうとすると所得は大幅に低下する(②)
      • 所得で測定した環境の機会費用(コスト)が大きく、傾きがかなり急である

生産可能性フロンティアは技術開発とともにどう移動するか?

ここで、技術の発達により環境への悪影響が少ない発電方法が開発されたとする

このとき、生産可能性フロンティアがどう移動するかはその経済が「所得」と「環境」というトレードオフ関係にある財に対してどういった選好 preference を持っているかに依存する(下図右側)

  • 経済が所得に対する選好を持っているのであれば、フロンティアは赤い実線の形に変化するだろう
  • 経済が環境に対する選好を持っているのであれば、フロンティアは青い破線の形に変化するだろう

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第2章はまだまだ導入。なぜこういう形になるのか OR なぜそういう傾きになるのか、については今後説明されていく(だろう)。

この章の大半は、叙述的な「実証的分析」と規定的な「規範的分析」のかい離による経済学者の苦悩がつらつらと描かれている。
要は「経済の構造を明らかにしたいという実証的な科学者としての立場と、施政者に対して望ましい政策を提示したいという規定的なアドバイザーの立場の狭間で頭を抱えている」らしい。

経済学者としてはトレードオフ関係を念頭において議論しているのでそれを無視して議論したくない。しかし、そうすると曖昧な物言いになって施政者を怒らせてしまう。
かといってじゃあ「これがいいよ」という共通見解を経済学者が提示したところで、施政者はそれとは別の理由で政策を変えたりするからうまくいかないねえ…ということらしい。

その辺が「合理的な人間像」を前提としておいていることの限界と、行動経済学が発展してきた背景だろうね、というところで第2章はおしまい!

 

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